2015年11月

2015年11月04日

ドブに捨てられた喜さんの版木

平成4年11月4日  朝

安原喜弘さん逝去から23年が経ちました。

舞台フレンドの原案である著書、昨年は品薄でしたが今は手に入りそう。ミステリアスな安原さんの、温かく切ない物語です。

『中原中也の手紙』安原喜弘(昨年の記事。私なりにとらえたこの本のミステリアスさ)  http://moezo.blog.jp/archives/1012881212.html )


さてドブに捨てられた喜さんの版木の話。 

劇中強い印象を残したエピソードですが、脚本の横内謙介さんはどうやってこれを書いたのでしょうか?どこまでが実際あった話?

前に書いたものの公開しなかった記事ですが、安原さんの命日の今日、せっかくだから上げておこうかと思います。もしお暇があれば、1年前の舞台の思い出に浸りつつゆるくご覧頂けたら嬉しいです。(えぐいほど長いです)


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(戯曲『フレンド-今夜此処での一と殷盛り-』横内謙介/悲劇喜劇2014年12月号)

中也:喜弘。お前が表紙を描いてくれ。
喜弘:え?
中也:『山羊の歌』のブックデザインだ。お前がしてくれ。いつか見せてくれただろう。学生の頃、作った文集。オレはあの表紙の絵が好きだ。お前には画才がある。

定吉:そうだよ、ヨシは作文も上手だったけど、絵はもっと褒められてたんだ。オレはてっきり絵描きになると思ってたぜ!
中也:ヨシ。…描いてくれ。
喜弘:僕なんかでよければ…!

(ここ、戯曲だと「喜弘。描いてくれ」なんですが、要さん演じる中さんは仲良し幼馴染定ちゃんが「ヨシ」って呼ぶのに揃えて初めて「ヨシ」って呼んでたんですよぉぉ……かなめんくっそお……萌え…!)



●閉店後のフレンド

喜弘:こんばんは。ごめん、遅くなっちゃった。いいかな。
秋子:大丈夫ですよ。…出来た?

喜弘は抱えた風呂敷から、一枚の版画と版木を見せる。

秋子:これは…壺?
喜弘:うん、古代の壺。無骨に、でも温かいイメージで。敢えて木版画にした。
秋子:へえ……
喜弘:明日、青山さんのお宅で、出版社の人たちと会って見せてくる。ちょっと緊張するけど…
秋子:大丈夫だよ、とてもステキよ。
喜弘:実は自信がある。思い入れある中さんの詩集だからさ……今度、絵本でも作ってみようかな。やさしい詩に、絵を添えて。
秋子:それが良いと思う。ヨシさん、どっちも上手だから。
喜弘:さあ、これで一区切りだ……小林さんと復活して、中さんの周りも随分賑やかになってきたし、そろそろ僕も自分の道を探さなきゃ…
秋子:良い絵だよ。うん!
喜弘:ねえ、秋ちゃん。ひとついい?

(ここから、ヨシさん決死のプロポーズ) 

僕と、交際して欲しいんだ!
もちろん結婚を前提として。僕は君のことが好きだ。
どうすれば君の苦しみに寄り添えるのか、ずっと考えていたんだ。正直、ボクに何ができるか分からない。ただ、君のことが好きだから、君のことを守ってあげたいと思う。
一緒に祈ろう。そして、生きてる僕らが力を合わせて、みんなの分も生きていこうよ。…ふたりでさ。

大丈夫、絶対死なない。僕は秋子を悲しませない。約束する……

喜弘はもう一度、秋子を抱きしめる。 

(ひーーーーーー!!!!!(大脱線))



●秋子の両親に結婚の申し出をする場面。同時に、版木を青山のサロンに見せに行った日。

秋子:どうだった!表紙の版画?
喜弘:うん……あれはボツだ。
秋子:え?
喜弘:不採用だよ。
秋子:な、なんで?
喜弘:うん、いいんだ、それはもう…それより、すみません、お時間頂いて。


喜弘は秋子と結婚したい、近々教師として就職する、と両親に話す。快諾されたところで、中也と泰子が現れる。
青山の家でのことを中也に詰め寄る秋子。


喜弘:もういいんだよ、もういいんだ…
秋子:何があったんですか?
泰子:聞いてないの?
秋子:はい。ボツだとは聞きましたけど…

中也:ボツはボツでも水没だ。青山さんちの家の隣のドブ河に。いきなりボチャーン。アレにゃぶったまげたな
泰子:ちょっと、よしなよ中也…
中也:だってしょうがねえだろ。事実なんだから。なあ喜弘。

喜弘:うん……青山さんがね、一目見るなり、なんだこの汚い絵はって。版木もろともお宅の窓から投げ捨てたんだ。ちょうどそこにドブがあってさ…

泰子:青山も怒鳴りつけてやったわよ。どんだけご立派な評論家サマか知らないけど、人が精魂込めて作ったものを。無礼にもほどがあるだろうって!
中也:(笑い)あの一派は芸術に対して激烈だからな。容赦がねえんだよ。あのサロンじゃ、小林だって火だるまにされんだぜ。喜弘は水攻めだが、文字通り、良い洗礼だ。ドブ河の洗礼だ!

秋子:ふざけないでよ!何なの、それは!!…ドブ河に捨てたって…それであんたはどうしたの?笑ったのか、そんなふうに笑ったのか!ヨシさんの魂がドブに捨てられて!絵はどこよ?この人の絵は!
中也:だからドブの中だ。
秋子:拾って来なさいよ!真っ先にドブに飛び込んで!何すんだって、そいつのことぶん殴りなさいよ!どんな大先生だろうとさ。友だちならそうするでしょ!

友蔵:おい秋子、もうやめろ。女がしゃしゃり出んじゃねえ。

喜弘:秋ちゃん…

秋子:許さないから。あたし一生あんたのこと許さないから!

中也:喜弘、ダメだ。こいつは芸術家の妻にはなれんぞ。この結婚はお前を不幸にする。今のうちにオレがぶっ壊してやろうか。なあ喜弘!

喜弘:中さん、いいかな……(一同に)すみません、お騒がせして。…僕、決心しました。終えることにします。文学と芸術の冒険の旅を。


中也:ふざけるな!これしきのことで挫けるお前じゃねえだろ!これからだろ、オイ!第一、お前はオレ以上に文学を愛してんじゃねえか。オレが弱音を吐いても、続けろと言ったのはお前だろ!

喜弘:そうだよ。中さんは天才だから。でも僕は違うよ。文学も芸術も愛しています。でも、僕に特別な才能はない。それがよく分かりました…………ただね、僕は中原中也という詩人の才能に、人より早く気づくことが出来た。それが誇りです。

今日、青山さんのサロンで、きら星のような我が国の知識人と目利きたちが、中原中也の詩を熱く語り合っていました。まるでランボーやボードレールを語るように情熱的に。その光景が僕は心から誇らしかったです。

その輪の中に僕もずっと居たかったです。けれどあそこは選ばれた人だけが入場を許される特別な場所です。僕はそういう最高の場所に憧れて、冒険の旅をしてきました。そして今日、その入口までが、僕のたどり着くことのできる限界なんだと思い知りました。…容赦なく却下されて、むしろ、清々しい気分です。

デザインは誰に決まりましたか?

中也:喜弘だ。もう一度描け。諦めるな。あいつらが参ったというまで描け。

喜弘:だめですよ。そんなのちっとも嬉しくない。誰にお願いすることになったんですか?教えてください。

中也:…高村さんだ。高村光太郎…

喜弘:すごい。日本一の芸術家じゃないですか。それなら一点の悔いもないです。大いに満足です!

中也:そんなこと言うなよ喜弘!行こうぜ、ふたりで。この先まで。ずっとずっと!

喜弘:僕は、これから秋子と新しい暮らしを始めます。僕には新たな任務ができたんです。愛する人を守り通すという、大役です。秋子と子供を作り、家族を持ちます。

叫び、暴れる中也と止める定吉。


中也:馬鹿野郎!喜弘、テメエは偽善者だ!心の熱さがない冷血漢だ!悔しいなら、なぜ叫ばん!悲しいなら、泣き叫べ!オレが憎いなら、殴りかかれよ!!おい、殴れ、殴れって!!

喜弘:冒険の旅は終わったけど、友だちです。僕たちは、ずっとずっと友だちです。

そして中也の手を握る。
中也は振りほどこうとするが、喜弘は離さない。

喜弘:僕はこれから船を漕ぎ出すんです。大切な人を乗せて。この世の荒波を超えて行きます。あなたが作る、櫂歌を口ずさみながら。一日働き疲れたら、あなたの作った、美しくやさしい夜の歌に癒されて、大切な人とともに、明日のために眠ります。だから作ってください。これからも、そういう歌を。


中盤の見せ場であり、わたし最大の号泣ポイントでした…
 

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このシーンに関わる部分を、文献や資料から。



『遊歩場』第2号表紙(昭和2年5月)


口絵(同)
安原さんが高校時代に仲間と作った同人誌。第2号は安原さんの編集で、木版の表紙と扉、凝った作りの詩画集だったそうです。 

表紙もこういう作風だったのかな。


安原さんの息子、安原喜秀さんの著書から。

「(昭和7年9月のこと)やがて本文の印刷だけはどうやらかなり満足に出来上ったのであるが、それ以上の金が最早や如何としても工面できず、切り離しのまま私の家に引き取って保管することにした。(中略)
表紙の版木は原稿も思わしくない上に、版の出来も不首尾で、その後これは古河橋のたもとから泥河の中に抛り込まれてしまった。(講談社『中原中也の手紙』安原喜弘 p.99)

表紙が誰のデザインなのか、どうして橋のたもとから抛り込まれてしまったのか、まったく不明のままであったが、(『中原中也の手紙』の)初版以来33年後にして明らかになった。

装幀は中原は是非共私がやるようにといって聞かないので、私が大きな壺の画を表紙いっぱいに描いて制版屋に渡し、木版はできあがったが、中原と二人で青山二郎の二つ橋の家に見せにいったら、青山は一目見て、「なんだこんなもの」というなり窓から放り出して、下の古川の流れにすててしまった。ばちゃーんとにぶい音が下の方で聞こえた。(中原中也研究6 p113『小林秀雄の思い出』昭和58年10月 安原喜弘)

つづけて「私の装幀の話はこれでおしまいである」と打ち切り、描いたものについて永遠に蓋をした。珍しく「ばちゃーん」という生々しい音が添えられて、喜弘の無念の思いが伝わってくる。青山の強さとこの芝居じみた捨て方も気になる。
(中略)少なくとも、喜弘にはよほどショッキングだったに違いない。私には、この出来事で、喜弘の造形に対する表舞台の意欲は折れて、へなへなとなってしまったのではないかとみえる。
(エッセイ『ばちゃーん』)

喜秀さんは、詩人が表紙を描けといって聞かなかったのはすでに『遊歩場』を見せられていたからでは、と推測されています。 


「いつか見せてくれただろう。学生の頃、作った文集。オレはあの表紙の絵が好きだ。お前には画才がある。」


中也の強い願いで安原さんが表紙に壺の絵を描いた。その版木を、青山がドブ河に捨てた。 それを機に、安原さんは芸術を諦めた。

なかなか現実に忠実なエピソードだったと分かりました。でもだとすると…安原さんのその時の気持ちを思うと、余計につらい… (フレンドの小道具の版木も、画面いっぱいに壺の絵と山羊の歌の文字が描かれてました)


これについて青山は 、

装幀は始め安原が木版自堀で、成田山のお札の様な大きさの字を、あの大きな本一杯に彫つて来たのを、私が(何だ、こりやア)と言つたので、中原が黙つて版木を一之橋の川へ窓から打(ぶ)ち込んだのを覚えている。代つて私が装幀をやる筈だつたが、兎に角経済的に言つて右の様な訳で結局ああいふ無地の無難な本になつて出たのであつた。」

(昭和26年 創元社版『中原中也全集』月報)

(わあw中也がやったことにしたww青山の勘違いかな?安原さんが真実を書いたのはこの30年以上後です)

では、青山はなぜそんなことをしたのか。 本当に安原さんには才能がなかったのか。 


事件の2年後、やっと『山羊の歌』を出版してくれるところが見つかりました。
野々上慶一さんはその書店兼出版社「文圃堂」の創立者。 

●野々上慶一 『山羊の歌』のこと

私がはじめて中原中也に会ったのは、昭和9年のたしか夏の終りか、秋のはじめの頃(中略)

その時、私はからだをこわして病床にありましたが、中也は私の寝ている部屋に入ってくると、「小林秀雄の紹介なんだが……」と低い声で呟くように言いながら、寝床の横にチョコンと坐りました。(中略)

やがて持ってきた風呂敷包みから、表紙のない刷り物を、私の枕元に差し出しました。見ると英国製と思えるコットン紙を使用した立派なものでした。彼はどうしても自分の詩集を文圃堂で本にしてほしい、と前置きして、かすれた声で、熱心に一気に喋り出しました。

それは、本文は既にこのように出来上がっているので、あとは表紙を付けて、できれば箱も付けてほしい。それから装丁であるが、『宮沢賢治全集』のようなのが気に入っているので、是非あんな本にしてもらいたい、ついては高村光太郎さんにお願いして字を書いてもらいたい。「高村さんのような字が好きなんだ、あれはいい字だよ」と中也はしきりに強調したのをよく記憶しています。

(中略)装丁は安原から青山に移ったのは、そうだったようです。といいますのは、装丁の下書きを青山の友人竹田鎌二郎氏が所持していて、それが出てきたのです。

(中略)青山が編纂した図録『甌香譜』の中の、唐三彩の小皿の四弁の花模様を、明らかに模写したものとおもわれるものなのです。(これを青山さんは、後に自著『眼の引越』の装丁に使用しています)


しかし、何故青山がこれを使ってやらなかったのか、私は知りません。青山が旅行中だったためなのか、経済的なことも絡んで、青山がいや気がさしたのか、中也が気が変ったのか、私にはわかりませんし、いまとなっては、根掘り葉掘り、調べてみる気は、私にはありません。

装丁のことについては、中也は青山二郎のことなどひと言も言わず、高村光太郎さんに頼んでほしいと言ったことは、前に述べた通りです。高村さんは賢治全集ばかりでなく、中也の本も快く、しかもタダで装丁をしてくださったのでした。(高村光太郎は『宮沢賢治全集』の装幀を担当してました) 



 『山羊の歌』装幀は
昭和7年9月時点→安原さん
昭和8年時点→青山二郎
昭和9年11月→出版に合わせて高村光太郎に依頼

と移ってます。まぁ結局、中也や青山の心情はわからない。

のですが、

この青山の装丁の下書きというのがこちら。


右が『山羊の歌』下書き左が自著『眼の引越』


昭和9年(山羊の歌の下書き)から昭和27年(自著『眼の引越』)まで、ほかに使わなかったのだから、よほど気に入った、取っておきのデザインである。(中略)
その花模様に、26年後に自著に使うくらい愛着があった、それを使おうとしたくらい中原に愛情があった、ということだろう。
(大岡昇平全集18 青山二郎装『山羊の歌』)


青山は青山なりに中也に愛情があった。青山さんイヤな人に見えますが、めちゃくちゃな中也に迷惑かけられつつ面倒を見てくれた結構な恩人です(変わったおじさんみたいだけど。ちなみに装幀家・美術評論家) 

装幀はもちろん自分に頼んでくれると思ってた。 


そこに安原さん…だったのかもしれない。

青山は嫉妬したのかもしれない。

そう思いました。

それも、思ったよりインパクトある作品だったのかもしれない。一目見てすぐ、わざわざ誰も見ることができなくなるドブに投げ捨てるなんて。

これは憶測ですが嫉妬まじりの行為であったとすれば、「安原には才能がない」というだけの理由ではなかったのですね。


もし、諦めなかったら……
違う未来があったのでしょうか。


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しかし結局安原さんは文学も絵画も筆を折ってしまいました。

しかも誰に宣言するでもなく、少しずつ離れ、孤独のうちに。(安原さんは中也が亡くなるまで独身だったので、秋子のシーンはフィクションです)

中也は、そんな物言わぬ「沈黙家」安原さんの心が分からない、もっと不満や思いを聞かせてほしいと手紙に書き送り、安原さんはそう思われてたのかと大きなショックを受けたけど、結局そのまま中也は亡くなってしまいました。

現実はもっと悲劇的な道を辿りました。すべてがもやもやしたままでした。 

『中原中也の手紙』はもう二度と伝える術がなくなった安原さんの懺悔です。


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こうして切ない事実を追えば追うほど、横内さんの中也と安原さんへの愛情を感じました。

このシーンは、記されたものたちの隅まで目を通し、語られなかった空白を使って、彼らのために横内さんが創り上げたもの。そして2人ができなかった「お互いの気持ちをぶつけ合う」場面だったのです。

 舞台フレンドの千秋楽後、私はツイッターで感想を書いてました。


横内さんがブログで「この舞台では、中也を泣かせたい」と書いていた。
観て思った。きっとこれじゃ号泣だ。

フレンドは、時を超えた2人の魂の救済だったように思う。
本の中の安原と中也は、すれ違ったまま別れた。
離れていく安原に、中也は気づいていた。言いたいことはいっぱいあった、言ってほしいこともいっぱいあった。でも、手紙だけではぶつけあえなかった

喜さんが諦めるシーンは、悔しくて悲しかった。背を向けられた中さんの心情を想って苦しかった。でも、喜さんと中さんのこのやり取りをみて、「あぁ、ようやくぶつけ合うことができたね。よかったね」って思う自分もいた。

中さんは孤独を感じた。中さんの死後、喜さんは自分が中さんを理解しきれてなかったと嘆く。
けど、燃え盛るフレンドで歌う中さんは、変わりなく喜さんのヒーローで。中さんの魂はあの喜さんの想い(「だから作ってください。これからも、そういう歌を。」)に応えた。

安原の魂を救えるあんな喜さん像になったのは、演じるのが増田さんだったからだと思う。増田さんはこれまで、手塚、坂東、真中…すこし真面目とかお坊ちゃんとかヘタレな役が多かった。気が優しく弱い。

でもそれは、増田さんのもつ最大の魅力がそこだから。太陽の笑顔。暖色の声。およそ芯から悪い人って気がしない、ハッピーオーラをまとった人。印象を変える挑戦だったストフルの千葉でさえ、根本は優しすぎて苦しむ人だった。それは当て書きの段階で、増田さんのオーラに引きずられた結果じゃないかと私は思っていた。 


そのやさしいオーラって、きっと強くなきゃ出ない。増田さんのやったやさしい役たちは、弱いけど、最後にはそこから立ち上がる強さがあって、それが人の心を打った。それを横内さんが「男らしさ」として拾い上げ、広げて見せてくれた。

安原は潔く男らしい人だけど、口数少なくすれ違いそれ故後悔を引きずって生きた。でも芸術や文学への情熱は、形を変えても消えてなかった。その静かな強さを、増田さんの中の強さと掛け合わせ、どちらも増幅させた。横内さんの目も凄いけど、それに十二分に応えた表現者増田に、震えが止まらなかった。

(ベタ褒めできもくてすいませんです(;∇;)w言い訳すると横内さんがまっすーに男らしさを感じる、そこを出したい!とおっしゃってたんです…!w)


れから秋ちゃん。喜さんと中さんだけでは、きっと安原と中也の魂は救えなかった。フィクションの存在、この物語一番のキーだったのは秋ちゃん。私は、秋ちゃんはもうひとりの喜さんだったと思ってる。

実在の安原は、ひとり孤独に文学から離れた。誰に宣言できるでもなく。それはとても辛いことだ。

悔しい気持ちを激しくぶつける。叱ってほしいときに叱ってくれる。(戦時下で中也についての本を書くことを) 止める秋子がいたから、(喜さんは) 自分がどんなに書きたいか気付くことができた。宣言できた。

そして(実在の)安原が誰にも知られることなく、戦火の中ひとりで守った手紙と原稿は、フレンドでは秋子が守った。 (2014年11月 9)



暑苦しいww

でも、文学・芸術を愛し、今も残る素晴らしい宝物を残した2人の先人を、芸術で泣かせてやろうなんて粋じゃないですか。

そして、増田貴久を通してならこの芸術は表現できる、そう思われたことが、増田さんのファンとしてとても感激することでした。


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安原喜弘さんという存在と、安原さんの愛した「中原の詩」を知ることができてよかった。フレンドという作品が生まれてよかったと、改めて思います。

安原さんの魂に感謝と敬意の気持ちを込めて。


非常にまとまりも締まりもない文章ですが、こんなところまで読んでくださりありがとうございました…!!