安原喜弘さんに

2014年11月03日

特別展示『中原中也と日本の詩』1・安原宛の手紙など


先週の話ですが見てきました。

特別展示 『 中原中也と日本の詩 』  

東京・立川での開催は11/5(水)まで
きょう11/3(祝)もやってます。
http://www.nijl.ac.jp/pages/event/exhibition/2014/chuya.html


なかなかフレンドの予習、復習にぴったりな展示なのです。でも遠方で来られない方も多くて、残念…

なのでレポと感想のようなものを(長いし、フレンドのみならずすっかりにわか中也ヲタの私視点です)。

******

入口にコート等の展示、奥は5つのコーナーに分かれてます。思ったより広い。1時間じゃとても足りなかった。


◆入口 HPに写真があります。

●中也が27歳の時に故郷で作ったコート
150cmトルソーが着てますが、展示ケースが高いので見上げる感じ。横に並べたらもっとよかったな。
でも、ダブダブとでかいフォルムの割に袖が短いw ひざ下まですっぽり包まれるサイズを好む小柄な彼。 B系でしょうか。 俺は山口生まれヴェルレーヌ育ち!悪そうなヤツはだいたい友達!

いや、いい人しか友達でいられない(付き合ってられない)から違うな。


●帽子
帽子は当時の流行りでリボンのラインで内側に折り込んで、頭のところを低くしてたんだそうで!
なるほど写真の帽子もなんか頭のとこ低い。 















後で大岡昇平※氏の記載を見つけました
(※
フレンドの「大岡良平」のモデル。安原の同級生。中也・安原らと同人誌『白痴群』を作った。中也と犬猿の仲だったが、戦後中原中也研究の第一人者となった人) 


翌朝中原は(中略)黒い背広に着替え、黒いソフトを平らにつぶしたのを戴いた。
この型のつぶし方は当時まず芸術家か牧師に限っていて、『在りし日の歌』初版本巻頭の写真、つまり大正十五年十九歳の時以来常に彼の頭上にあったもので、昭和九年に到って初めてベレーに取って替られた。
河上徹太郎が戯れに彼を「偽牧師」と呼んだのも、この帽子のためである。
(『中原中也との思い出』大岡昇平)


偽牧師ww
要さんの帽子もつぶしてあるのかな? 
そういえば要さんのお辞儀の仕方は牧師のようでした。

(河上は小林秀雄を通して中也と知り合った音楽評論家で、彼も『白痴群』仲間。兄ちゃん的存在の人です)

その他、中也直筆の表札、↑の肖像写真の現物が飾ってあります。



◆展示1 中也の詩 HPに写真があります。
進むと中也の代表作3作の特大パネル。解説付き。 「サーカス」「汚れつちまつた悲しみに……」「一つのメルヘン」


◆展示2 中也の生涯 HPに写真があります。
ここでとんでもなく足止まる。
中也の年表をバックに、現物が年代順に展示されてます。


まずは故郷で使った勉強机と小学生時代の習字、絵、成績表。
成績ほぼオール甲(ABC評価のA)だし、習字激烈なる上手さだし(父母も自慢で、中也は中学生で中原家のお墓の字を書いてます。今その下に眠ってるんですね)まさに神童。医者の長男で神童。何か顔も可愛いしハイパースペック!

それが詩にのめり込んで落第し→京都の学校に転校して一人暮らし→酒もタバコもやって長谷川泰子と出会って同棲して上京して働かないで仕送りで生活して酒飲んで暴れる詩人になってゆくという。
スペクタクル…


続いて直筆の原稿や手紙、作品が掲載された同人誌・雑誌、詩作のノートや日記帳が並ぶ中、安原氏の『 中原中也の手紙 』 にみられる書簡は2点ありました。



●疲れやつれた美しい顔 
原稿用紙1枚に書かれた詩です。 封筒サイズに折られた跡。周りが破れてる、保管時になにかあったのかな。

著書で詩の前後はこう書かれています。(青字が中也、緑字が安原の解説)

昨日は詩を三つばかり書きました。頭が混乱していますので、どうせろくなものではありません。(手紙十八 昭6.9.23)

十月九日付で、久しぶりに二つの詩篇が送られている。それ等は『山羊の歌』にも、また彼の死の直前に編輯されそして彼の死後初めて出版せられた『在りし日の歌』(主として『山羊の歌』以後の詩)にも彼によって収録されなかったものである。

これより少し前の九月二十六日、詩人の郷里では、詩人が特に可愛がっていた弟恰三が病死している。詩人の悲しみは大きかったようである。しかし、京都にいた私はこの死を全く知らなかった。 
(『中原中也の手紙』 安原喜弘)

一緒に届いたもう一つの詩は「死別の翌日」。


●手紙五十三 昭和8年1月29日
原稿用紙1枚。中也は原稿用紙と切手を持ち歩き、どこでも手紙を書いたそうです。 (切手はお金がなくなると電車賃、酒代、朝食代になることも)


昨夜は失礼しました。
その後、自分は途中から後が 悪いと思いました。といいますわけは、僕には時々自分が一人でいて感じたり考えたりする時のように、そのままを表(オモテ)でも喋舌(シャベ)ってしまいたい、謂ばカーニバル的気持ちが起こります。その気持ちを格別悪いとも思いませんが、その気持の他人に於ける影響を気にしだすや、しつっこくなりますので、そこからが悪いと思いました。取乱した文章乍(ナガ)ら、右今朝から考えましたことの結果、取急ぎ お詫旁々おしらせ致します。
 二十九日   一人でカーニバルをやってた男  中也   喜弘様



 夜前私達は例によって彼の想念に基き街を行動した結果、銀座方面に於て遂に敵軍に遭遇し、そこに激烈なる市街戦を演じたのである。夢と現実との相克は尚屢々(シバシバ)彼の中に激しかった。一度は平衡を得たと見えて、次の瞬間には又々私共の手許遥かに逸脱するのである。能無しの証人は僅かに彼の肉体を抱えて下宿につれ帰るのみである。(同)


街で人に絡んで大乱闘した翌日です。中也の手紙はお詫びから始まるものが多い。
活字で見るのとはやはり印象が違いました。直筆はなんとも可愛らしい文字で、それで「カーニバルをやってた男 中也」ってさ。 
これじゃ散々振り回されてぐったりしきった喜さんはため息つくしかない。


昭和7年9月頃~8年1月頃は、安原氏が「詩人の魂の動乱時代」と呼ぶ時期です。
中也の幻聴や被害妄想がひどくなり大荒れに荒れ友人とどんどん決別します。その中離れることなくただ一人、ずっとそばに寄り添っていたのが、喜さんその人でした。
2人にとって重要な時期の一枚です。

(ところで、これだけされてても喜さんは自分の方を「能無し」と書く。こういう、とにかく目立とうとしない控えめな叙述が、この著書と安原氏の性質をよく表してると思います)


その他の書簡で印象的だったのは、

●阿部六郎※宛書簡 
(※安原の高校の教師で、『白痴群』の同人の1人)

前略聞けば子供さん亡くされた由哀悼の意を表します。 
小生秋になったら郷里に引上げようと思ひます。なんだか郷里住みといふことになってゴローンと寝転んでみたいのです。もうくにを出てから十五年ですからね。ほとほともう肉感に乏しい関東の空の下にはくたびれました。それに去年子供に死なれてからといふものは、もうどんな詩情も湧きません。瀬戸内海の空の下にでもゐたならば、また息を吹返すかも知れないと思ひます。
(昭和12年7月7日 一部抜粋)


子供を亡くした阿部への手紙。
同じく前年、溺愛してた息子を失い精神錯乱に陥った中也は、疲れ果てた心身の再出発のため、妻子を連れて山口に戻ることを決め、9月に二作目詩集『在りし日の歌』の原稿を小林秀雄に預けます。
しかしそのまま10月に発病し、鎌倉の地で力尽きるのです。

中也の身体のような、小さく、少し崩した温かみのある丸文字で、この内容を読むと、切なく悲しくなりました。



中也の原稿用紙

手紙や原稿はほとんどが『東京 文房堂製』と銘の入った原稿用紙(B4くらいで赤茶色の枠線)なんですが、何かどっか違和感があるな?と思って数えてみたら、

20行×25文字の500字詰めだった
(一般的に使われてるのは20×20の400字)

で調べてみたら、中也版で復刻されてたw

http://www.bumpodo.co.jp/original_gennkouyoushi/


調べりゃ何でも出るもんだ…十二の冬のあの夕べ…(違)


こちらも後日記述見つけました。大岡先生は何でも調べてます!


中原が使った原稿用紙には右の罫線のゆがみ、こわれなどを計算に入れて分類すると、六十種類ある。一番多いのは25×10×2の五百字詰の文房堂製である。
これは神田駿河台下にいまでもある画材店で、明治四十二、三年頃から、原稿用紙を作り出した。日本橋の丸善、本郷の松屋、新宿の甲州屋と並んで、昭和初期、最も人気のあった原稿用紙である。
(『再説・原稿用紙』大岡昇平)

ここの原稿用紙も丸善製のように百枚ひと組みであったが、印刷はアズキ色で明るい上に、色が薄い。(中略)
四百字詰は小説家のもので、論文は六百字詰を使ったと思われる。(中略)富永、中原のような詩人は五百字を多く使っている。詩は上を二、三字空けて書くから、下に余裕がある方が坐りがいいからであろう。たまに四百字詰の使用例があるのは、気分転換のためだったろう。
(『原稿用紙』 同)

展示物は、手紙や草稿(下書き)が主なので、ぐちゃぐちゃに塗りつぶした部分があったり、赤で修正が入ったものも見えます。

その草稿から、空白や改行に細かく気を配って、本にするために清書したのですね。
(ちなみに安原氏は、中也に送った手紙は残ってないのですが、手紙の下書きが見つかっているそうです。手紙も清書した時代)


原稿とは印刷するため下書きの意であるが、原稿用紙には一字一字離して読み易く筆写出来るという効用がある。中原もそのように新作をていねいに清書して、われわれにくれた。(『再説・原稿用紙』同)



喜さんはこの清書を手に、処女詩集『山羊の歌』を出版すべく、中さんのために奔走したのでしょう。


******


長くなりました。
続きはまた次に。
同人誌『白痴群』と詩集『山羊の歌』について。



この記事へのコメント

1. Posted by (・◇・)   2014年11月03日 21:06
5 展示レポありがとう(-人-*)
トルソ-展示は観覧者と同じだったらよかったね(>_<)そしたら小柄さをより感じられたよね。
帽子の説明すごく興味深かった♪中さんに会ったとき絶対もえぞしゃんのイラスト思い出す♪

原稿用紙に気づく視点すごいよ(;▽;)
そして大岡昇平さんの中原研究っぷりを知って、本の中で安原喜秀さんが書かれてる主導権争い云々の一文の重さに気づかされる…(いや関係ないかもだけど)

続き楽しみにしてます♪

(ほんとはTwitterにリプしてたんだけど、コメント欄の存在を知りこちらに載せました♪)
2. Posted by ぶらちゃん   2014年11月04日 18:27
もえぞうさん、しっかり詳しいレポありがとうございます。
行きたいけど遠くて行けない人も、まるで行ったように感じられそう!
確かにコートは下に置いた方がよかったですね〜
帽子の折り込みはな〜るほどと思いました。
中也の習字や絵の上手さにビックリ!! 成績表の唯一の乙が体操だったのにクスッと(^_^)
呑んで暴れた翌日の手紙はもう、舞台の世界そのものですね〜
本当に安原さんはため息だわね〜
一緒に行った娘が飽きてしまって、他の詩人との交流の部分がゆっくり見られず残念でした〜
原稿用紙なんて、全然注意して見てなかった〜>_<
もえぞうさん、すごいです!!
3. Posted by もえぞう   2014年11月08日 19:20
さえびちゃん>コメントありがとう!返事の仕方がこれであってるのかわからないけどとりあえず(;▽;)w
そうなの、横に並びたかった。大岡さんは読めば読むほどすごいw語ろうとしない安原さんと対局かも。どちらも違った愛の形なんだけどね。
遅くなっちゃってるけどまた続き書くねーヽ(;▽;)ノ


ぶらちゃんさん>コメントありがとうございました!
体操wやっぱり体動かすのはダメだったんですね~。他の詩人のコーナーは、私もざっくりとしか見れず時間の読みが甘かった…と思いました(;▽;)
原稿用紙はたまたま気づいたんですけど、文字数違うなんて思いもしませんよね。びっくりしました~
4. Posted by ハル   2014年11月10日 14:47
5 初めまして、コメントさせて頂きます!
初めに、とても詳しいレポを本当にありがとうございました!

舞台『フレンド』を観に行ってからというもの、中原中也さんと安原喜弘さんの生きてきた時代を知りたく、人物像も知りたく、図書館で本をあさり無我夢中で調べていましたところ、こちらのブログにめぐり逢いました。
わたしは、昔から(いま、世代はアラフォーですが)活字中毒といっていい程、本が好きで、、図書館の小説からドキュメンタリーから、なんでも読みあさってました。
一つでも知らないことを知るってことに、嬉しさを感じまして、何も知らないことを勿体無いと思いまして。。

話は横それしましたが、貴方様のブログがとても素晴らしく、まだまだ続きが見たいと思います。
舞台の秋子さんは違ったのですね?、、そうとは知らず 本を読んでみては秋子さんが出てこない事に不思議に思っていました!

安原さんは表に自分のすべてを現さない人で、その対照的な中原中也さんに惹かれてのかもしれませんね。

文字に力があるのは、中也さんの詩を見ても分かりますね!

考え深く、繊細な中也さん……それを支えた安原さん。。生きた証とはこのことですね!

続きを是非によろしくお願いします(^-^)

すいませんでした!長々と💧

ハルでした!
5. Posted by もえぞう   2014年11月14日 16:58
ハルさん>コメントありがとうございました!
お返事が遅くなり申し訳ありません(ノД`)
たくさん読んでらっしゃるんですね!
知らないことを知る嬉しさ…分かります(私は狭い範囲ですが^^;)
自分の読んだものの記録として書き始めましたが、気に入っていただけて光栄です。

秋子はフィクションですが、名前と渋谷の西洋料理屋の話は出てきています。
またその辺のことも書きたいと思ってます。

生きた証、ほんとにそうですね!中原中也の魅力を知ることで、安原喜弘の想いもわかるかもしれませんね。
また覗きに来てください。ありがとうございました(*´▽`)

コメントする

名前
 
  絵文字
 
 
安原喜弘さんに