2014年11月08日
安原喜弘の姿②壮年時代~晩年
①のつづき。
安原喜弘さんは、中也と過ごした青春の時代を過ぎ、その先を生き抜きました。
ご長男 喜秀さんの記述を中心に、30代から晩年までを追います。
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◆壮年時代(戦時中)
●1937(昭12) 29歳 中也との別れ。
●1938(昭13) 30歳 参木千枝子さんと出会う。 周囲が心配しての見合いの話がいくつかあるなかで、のちに結ばれることになる東京・小石川に住む、サラリーマン家庭の婦人との話があった。
●1939(昭14) 31歳
第二次世界大戦始まる。女学校を辞め、横浜の軍需工場へ。秋に見合いが成立。
●1940(昭15) 32歳
結婚。『中原中也の手紙』連載開始~(翌年 戦争の統制のため中断)
二人はまたたくまに、お互いの中に理想の人を認め、「見合い恋愛だった」というほどの仲で翌十五年に結婚。(中略)だが婦人はこの時、(詩人)と中原中也の関係も全く知らされず、それがいつどこで執筆されていたのか思い当たらないと述懐する。
(青土社『~手紙』あとがきにかえて 2000)
フレンドの中で最大のフィクションは「秋子」の存在です。
実際の安原さんは、中也が生きている間ずっと一人だった。奥さんは『中原中也の手紙』のことも知らされなかった。この秋ちゃんの存在が物語『フレンド』最大の鍵だと私は思ってますが、その話はまた別で(できたら)。
奥さんはどんな方か?それは安原さんが、家庭で中也をタブーとしていた様子の中で見られる。
父が生きているときはこの問題には触れられなかった。うっかり言おうものならとても怖かった。(『any No.81』)
父は詩人の死後もみずからの売名に詩人を利用する人ではなかった。だから、いつでも進んで書こうとはしなかった。 (中略) 当然、父が自分のほうから詩人について口を開いたことはない。家庭内では、とくに母などが、だんらんの雰囲気を絶やさぬよう、あえてお調子ものとなって促すと、父は詩人について切れ端のような言葉を吐いた。(講談社『~手紙』著者に代わって読者へ 2010)
母が「中原さんを抱き抱えたんでしょう?」と聞いたときに「わりと軽かった」と言っていたこと。でも、覚えているのはその程度。(『フレンドー今夜此処での一と殷盛りー』パンフレット)
母は父に似て、他人の前で自分や自分達のことを語るのを好まずきわめて控えめなうえ、いわば「過去をほじくり返す」のが大嫌いな性分である。(中略) 父がこの世を去って後、手を付けられなかった遺品をようやくゆっくりとおそるおそる片付けだした(『晩年の手記』解題)
穏やかで控えめで、安原さんに似てるなと私も思いました。沈黙家の旦那よりは場の空気を読むことに長けてるかな?(笑)安原さんはきっと千枝子さんと出会ってようやく癒されたんですね。
●1941(昭16) 33歳 喜秀誕生。真珠湾攻撃、太平洋戦争はじまる。2年後に次男の二郎誕生。
●1944(昭20) 37歳 3/10 東京大空襲。5/25 未明、山の手総攻撃。
2人の子を抱えての戦時下。フレンドで描かれたのはここまで……
その後、戦後の厳しい生活の中、必死に家族を守り抜いた。その苦労が体を蝕んでいきます。
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《写真 昭和33年 50歳 玉川学園の自宅で家族と》
◆壮年時代(戦後、生活と病)
そのころの父が戦後の貧しい中から漸く仕事にもついて、徹底して律儀を貫き、ときにそれが夫婦喧嘩のもとになるほど体を酷使して働き、家族を支える生活をしている。(講談社『~手紙』著者に変わって読者へ 2010)
●1949(昭24)年 41歳
玉川大学出版部(編集)に就職。(以後、おしごとは育英会や大学図書館などの教育畑で、70歳まで)
●1950(昭25)年 42歳
大岡昇平の勧めで『中原中也の手紙』執筆再開("手紙八十一"以降)。戦後食糧難の栄養失調の影響か、若年性白内障で手術。
ほぼ右目だけで生活するようになった(このことを筆者はずっと後になって聞いた)。それでもこの頃の父はまだ子供の眼にもかなりカッコよく、江ノ島の海岸で、見事なクロールを泳いで見せてくれたりしていた。(ちなみにどうでもいいかもだけど中さんは泳げません)
そんな父がそれから家族を養うのにも苦労し、次第に絶えず病いと闘っていく運命を背負うようになる。片目のみを酷使する編集作業に追われるうちに(後略)
●1962(昭37)年 54歳 喘息にみまわれる。
無理がたたり風邪をこじらせて喘息にかかってしまった。私はいまでも、からだに対する自信過剰と自己犠牲のもとにすべてを調和させていく仕事への律儀さから、売薬を飲み飲み風邪を自分で治そうとしていたこの時の父をつい昨日のことのように思い出す。
喘息の発作がおき、たんがのどにつかえれば窒息死に至ると大騒ぎとなり、その度に入・退院を繰り返す日々であった。
●1978(昭53)年 70歳
その繰り返しに耐えながら定年を迎え、再就職、さらに母校の同窓会の事務を昭和五十三年三月(70歳)に終えやっと自宅での仕事に就いたのであった。肩書きは自称「著述業」。
●1985(昭60)年 77歳 心臓ペースメーカーを付ける。 80歳以降、四年にわたり、終始母に頭を下げながら、壮絶な自宅介護の日々を送っていくのであった。
30年も喘息で苦しんだ安原さん。これに関係して、中也の話を書かれています。
昭和5年(22歳)、2人で奈良の教会へ(中也の祖父母が熱心なカトリック。山口で一家が世話になった神父がこの時奈良にいた)。80歳を超えた神父は喘息を患っていて、「神様の許しを得て毎朝1本煙草を吸います。すると1日楽に暮らせる」という話をする。
若いころはかなりの喫煙家だった私は、昭和三十一年(48歳)にふとしたことから煙草を絶っていたが、その時これを思い出して、藁をもつかむ思いで私もためしてみようと思い立ち、十二月の初めのある朝、二十一年ぶりに禁断の煙草を口にしたのである。(中略)いまでも私は朝の一服をつづけている。これは全くの余談だが、これも「詩人との出会い」につながるものと、いえないことはない。
(『詩人との出会い』)
20代の時って喫煙家だったんですね!
この話の書き出しも終わりも「余談だが」で語られるけど、息子さんがいずれにしても、父は生涯「中原中也」を引きずって生きた(2010講談社 著者に変わって読者へ)
というように、中也を抱えたままの人生だった。
中也の病床で、周りの友人はカトリックの洗礼を受けさせるか相談した(実現せず亡くなったけど)。安原さんは、1985(昭60)年 77歳で洗礼を受けています。
◆息子から見た父
ひとつの言葉も重いものと思っている父は、黙して語らずの沈黙家で、自身も人好きのするほうではないと認める気難し屋である。付き合うまでもない。そんな父を詩人がなぜ選んだのか。のちの人はこれを問い続けるだろう。(講談社『~手紙』著者に変わって読者へ 2010)
父のことを書くようになり、調べ始めて、改めて父のことを見直していくと、なかなか稀有な人だなと思いました。
とても優しくて、謙虚。そして家族・親戚・友達、年齢を問わずどんな人でも父に対しては親近感を覚えるようで、不思議なことにその優しさに包まれてみんないい気持ちになるんですね。
ただ、自分を語るということをあまりしない人でした。何かを言えばある人にあまりいい思いをさせない。何かを言うと今度はこちらの人にいい思いをさせない。そういうことがすごく気になっていたようで…。自己表現はあるけれども、ほとんどしなかった。自分が自分がというところをまず抑えてしまう人でした。(『any No.81』 2012.9)
私の父、安原喜弘は大変な紳士でした。人間の見苦しさを見せず生きようとする美意識の持ち主であり、粋を知っていた人といいますか。とにかく潔い人で、それはちょっとマネができないくらいだったし、自分のことをほとんど語らない人でもありました。 (舞台『フレンドー今夜此処での一と殷盛りー』パンフレット)
喜秀さんの父への印象も変わっていく。長男の反発心があったし、また何も語らない父親をよく知らなかった。死後になってようやく少しずつ見えてきた(でもまだまだ)という感じ。
しかし、血の繋がった息子お墨付きの沈黙家。中也も困るはずだw
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◆壮年~晩年へ(芸術と文学)
《写真 昭和63年 80歳》
文学や芸術との関わりはどうなったか。
昭和26年(43歳) 創元社版『中原中也全集』
昭和30年(47歳) 角川文庫版『中原中也詩集』(河上徹太郎編)
実質的な編集を手がけたのは安原であった。年譜の表現や未完詩の選択と配列などに、安原の個性が現れている。
昭和42年(59歳) 角川書店版『中原中也全集』
編集部に充てた手紙で、『山羊の歌』本文の印刷について当事者にしか知り得ない割符の詳細を正確に伝えている。
自らの名を冠した文章以外でも、安原が中也の詩の普及に果たした役割は大きい。(特別企画展「中原中也の手紙」パンフレットより)
(詩人)は言葉遣い、用語、用字に厳しく、編集作業に精通し、校正などにはとてもやかましい人で(あとがきにかえて2000年青土社)
あくまで表舞台にたたない裏方で、でも、中也の詩のために文学に携わっていました。そのおかげで、中也の詩は多くの人に愛された。
「……だから俺はな、せめて詩ぐらいは、俺を超えて欲しいと思ってる。詩だけは、人に愛して貰えるようにと願ってるんだ。俺はこれまであらゆる物に背いてきたが、ただひとつ、詩にだけは、誠実であったつもりだ…」 (フレンド・中原中也)
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でも自分の本『~手紙』は全集が出るからいらないだろって絶版にするし、
高校生の頃に、父の設計による木造トントンブキの七坪半の、新築家屋の隅に、山積みになっていた
(2010講談社 著者に変わって読者へ)
その貴重な本くださいと思っちゃったけどwお家の設計を自らされたのは嬉しい話。舞台美術に関心のあった安原さん、自宅の絵を描いてた。
結局、『~手紙』關係の添え書きの他に生前発表作はない。でも亡くなった後に、奥様と息子さんが遺品を見つけます。「思いつくままに」というノート(1982年12月7日~・74歳)、ルーズリーフや原稿用紙のエッセイ、日記。
それが『安原喜弘 晩年の手記』として息子さんの手で公表される。中也や小林秀雄についてのものもあるけど、それと関係ない「思いつくまま」のエッセイは、中也の陰から出てこなかった安原さんが唯一自分を出した場所なので気になりました。
花の香りは人の心をなごませる。香りのない花は造花と変りないように私には思えてならない、とはいえ、生の花は、なんといっても生きものである。なかにはあまり美しいとはいえない花もないとはいえないが、花はだいたい美しい。それが自然の摂理というものなのだろう。 (『花の香り』)
だいたいと自然の摂理でカタがついたww なんか…これが胸に色々積もるものがあっても爆発せずに黙してこられたこの人らしさだったのかなぁ……なんて思ってしまったwなごみます。
「書いてるか、喜弘。詩を書け。絵を書け。おおいにやれ!書こう。俺たちはとことん書こう」(フレンド・中原中也)
定年後に自ら名乗られた「著述業」が、中原中也への答えだったらいいなと思います。
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長々となってしまいました。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました!
もしかしたら③ も書くかもしれません。
2014年11月04日
安原喜弘の姿①幼・少年~青年時代
著書『中原中也の手紙』の中ではつかみきれない「沈黙家」、安原喜弘さん。
彼は一体どんな方だったのでしょうか。
まとめました…
いやまとまってない…長い…長いけど…
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◆幼・少年時代
●1908(大正41)年 5月19日生
東京芝生まれ。目黒育ち。
男4人の下に女2人、の2番目(1人目の妹は1歳で死去)
長男:陶芸家
三男:運動方面
四男:演劇・写真からテレビ企画界の草分けのひとりに。
次女:11歳下で『中原中也の手紙』(以下『~手紙』)に登場。
父:日本郵船の船長(不在がち)
母:生家は江戸の侍の出で、横浜の馬車道に郵便局を開いていた。港町横浜育ちなので、英語が話せた。
私は私にとって祖母にあたるその人のふわっとした暖かさを今でも忘れられない。(詩人)※にもそのままそれは流れていたようである。
(青土社版『~手紙』あとがきにかえて 安原喜秀)※(詩人)=安原さんのこと。喜秀さんは喜弘さんの息子さん。
●3、4歳のころ
家の前の道路を一日中飽きずに眺めていた。主人に打たれる荷馬車の馬や、仲間が死ぬ軍歌を歌う兵隊の列を見ては、胸を痛め思案する子だった。
「(戦争について)私の小さな頭では、どうしても天子様という人の存在が理解できなかった。いくら考えても、この世は理解できないことばかり多かった。私は物思う少年として育った。」(『中原中也と私』)
●7~17歳
成蹊小~中学校に進むが、超体育会系スパルタ学校でなじめず。
何度か脱走を試みるも、先生や父親に引き止められる。
こういう学校だから、私のような物思う少年にはたいへん住み心地が悪かった。私はいつも先生に叱られ、つねられたりしてつらい毎日を送っていた。しかし私は教師に殴られたことだけはなかった。他の生徒はかなりなぐられていたように思うが。これは私が何を思い何を考えているかわからない気味の悪い少年だったからかもしれない。(同)
でも中学5年(17歳)の秋、意を決して退学!
私はどうしてもここの学校を卒業するのがいやだった。私はこの当時、真の意味の個性尊重を実践した小原国芳先生の成城学園に強く心を惹かれていた。(中略)幸いテストに合格し、九月から成城第二中学の生徒となることができた。私の喜びは、まことに筆舌につくしがたい。まことに天にも昇る嬉しさであった。(同)
◆青年時代
●18~20歳、芸術と出会う
転校した成城は芸術活動が盛ん。高校に上がると、文集を出し、学内劇団にも所属する。
成城に移って私はまず油絵を描き出した。同級には詩人富永太郎の弟富永次郎がいた。また大岡昇平も少したってから青山学院から移って来た。古谷綱武もいた。かなり文学的雰囲気がみなぎっていたといえよう。私はこれらの連中と話をし、いろいろと本を読んだ。(中略)私のもの思う心は少しずつ開けていった。芸術をやろう、文学をやろうと少しずつ心は傾斜していった。(同)
所属した学内劇団「ノイエ・グルッペ」では、1作の主演・演出を担当している。
ほかにも、劇場の舞台写真を集めたり、舞台装置のスケッチを描いたり、戯曲だけでなく舞台美術や演出にも深い関心をもっていた。
スポーツも。
私は中学時代にはサッカー、ラグビー、テニス(硬・軟)、バスケットボール、陸上競技(ハードル、ハイジャンプなど)様々なスポーツなどで自分の体をこき使うことに専念するいわばスポーツマンだった。(『中原中也と私』)
同級の野々村良雄(音楽評論家)の日記には、20歳の安原さんの部屋の様子が。
こんもりした森に囲まれた美しいながめの二階。古めかしいつくり。大きなのや小さいのや美しいかめが花瓶がとこのまやたなにかざってある。美しい!京都の美だ。彼は日本の誰かのあまり立派でもない小説を読んでゐたのだった。夏向きの書斎で。平和、日本の美。
どうしようどこから見ても異常にイケメンでしかない。
ほかに野々村氏は、アンゼルムス(ドイツ小説に出てくる善良で世渡り下手な学生)と安原さんを評している。
●20歳(昭和3年)~ 中也と出会う。京大進学
20歳、高校3年生の秋。中也21歳。
昭和三年の秋、私は大岡昇平から詩人中原中也を紹介された。これこそ私にとって生涯の大事件である。中原中也との出会いは、私の生涯を左右してしまったといえる。私は一目で中原中也に魅入られてしまったといえるだろう。ことにそのなんともいえない澄みきった目は驚きだった。(同)
卒業前に中也に誘われ、大学入学の4月に同人誌『白痴群』創刊。
昭和4年4月~昭和7年3月 京大文学部哲学科(美学専攻)へ進み、京都で暮らす。
《写真 昭和5年(22歳)ごろ》
身体的特徴がわかるのはこれくらい。
中原は、人も知るとおり小柄な人だった。かぼそい体つきだったが、痩せっぽちではなかった。並んで歩くと、ちょうど私の肩のあたりに、例の黒のお釜帽子があった。この帽子は後には黒のベレーになったのだが、私はそのころ百六八センチあったから、彼の背丈は百五〇センチぐらい、昔流にいえば五尺たらずであったろう。しかし、彼といっしょに歩いていて、どういうものか彼を小さいなと思った記憶はまったくない。おそらく他の誰もがそうだったのではないかと
思うのだが、ふしぎな話である。(『中原中也のこと』)
●24歳~27歳
大学を卒業した春(昭和7年4月~6月)玉川大学出版部の百科事典の編集に携わる。
その後、執筆や演劇に関わりながら、昭和9年に詩集『山羊の歌』が出版されるまで、中也を近くで支える。
京都大学文学部に進学した文学青年で。当時の美学専攻というのは、つぶしが利かず、折からの大変な就職難もあり、職につけなかった。だから自分のやりたいことをやっていたし、文学も演劇も絵画も好きで。陶芸家の兄と一緒に版画を作ったり、絵を描いたりもしていました。(『フレンド-今夜此処での一と殷盛り-』パンフレット 安原喜秀)
《写真 昭和7~8年(24~25歳)ごろ》
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大学からこの時期の安原さんは著書『~手紙』ど真ん中。中也も「沈黙家」と評した控えめな姿が主立って見えます。
でも上記のとおり、この時期も「何かを表現する」情熱を絶やしていない人だった。
同書だけだったら、大岡昇平氏曰くの「中原の最も忠実な伴侶」像を悪い意味にとり、「忠実」ゆえあまり自己主張しない人、という印象をもっていたかもしれません。
だって演劇ひとつとっても「手伝い」としかないし…→)そのころ私の友人が「パリの屋根の下」をオペレッタにして赤坂の三会堂で公演して、私も手伝ったりしていた(『~手紙』昭和7.5.19)
安原さんの活動が見えなかった。
たとえば、昭和8年(25歳)。
私はこの頃さる事件に捲き込まれて籠城を余儀なくせられ一月ほどの間彼の動静に接する機会がなかったのである(昭和8.5.16)
ただごとではないのですが、この一文だけで安原さんの境遇がわかりません。10日後の
成城の方で忙しい由聞きました(手紙五十八 昭和8.5.25)
この中也の手紙で、ようやく解説が入ります。
「成城の方」この年三月、私の母校成城学園(成城高校)で建設者の小原国芳先生の排斥運動があり、これに対して小原先生を慕う生徒たちの大部分が先生の復帰を唱えて立ちあがり、教職員、父兄を二分しての一大学校騒動となった。いわゆる「成城運動」である。私も旧制高校第一回の一人として生徒の主張を支持して応援に加った
。
確定できないけど、事件=成城運動と推測できます。でも応援って具体的に何かわからない…
このように、同書の中で安原さんは自分の詳細をなかなか描かないのです。この時のことは、息子の喜秀さんの記述で意外な発見に繋がりました。
(詩人)はそのとき母校成城に、演劇の仲間でもあった親友・山口晋平とともに姿を見せ、後輩の前で演説のようなことをしたそうである。きっと、成城の教育の重要性に熱弁を振るったのではないだろうか。(中略)しかし、この姿には私はとまどいを覚える。どちらかといえば、もごもごとして大声を出すのが大嫌いで、控えめで、テレ屋で憎らしいほどのダンディぶりを身にまとっていた(と言われている)人にしては考えにくいことであるからだ。
(青土社版『~手紙』あとがきにかえて 安原喜秀)
『~手紙』から私が感じていた印象は、息子さんも同じだったわけです。でもようやく、その側面が見えてきました。
人よりだいぶ物言わないけど、自分の主義主張は持っていて、彼は彼の信念に基づいて、黙って中也の傍にいた。それが確かめられました。
しかし、中也の傍にいるということ=ひどい苦労の連続。また表現者として思うところも大きかったのでしょう。
とにかく私にとって中原との交遊は、したがって中原との出会いは、決して楽しいものではなかった。思い出は辛く、心重い日々の連続である。この間に私はいつしか文学思考を捨て、筆を折った。(『詩人との出会い』)
「何を思ったから筆を折ったのか」
もちろんその理由は語られません。
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●28歳 母親のつてで、横浜の女学校の英語教師の職に。
●29歳 中也死去
●32歳 結婚。富永次郎、古谷綱武の奨めで『中原中也の手紙』の執筆を始める。
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②壮年時代~晩年 に続きます。
安原喜弘さんに
中原中也の生涯の友、安原喜弘さんは
1992(平成4)年11月4日朝
84歳で永眠されました。
それから今日で、22年が経ちます。
『フレンドー今夜此処での一と殷盛りー』
NEWS増田さんのファンとして、この主演舞台の原案である著書、『中原中也の手紙』を手に取りました。
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読後。まず読みものとして、これまでにない衝撃を受けました。
100通に及ぶ手紙の紹介の中、その受け手である安原さんの姿は、ほとんどわからなかったのです。
著者が陰に徹して、見えない。出会ったことのない感覚でした。
手紙はふつう、一方的なものじゃなくてやり取りのツール。当然安原さんの手紙の返事として届いたり、中也の問いかけに安原さんが手紙で答えたりもしたでしょう。
でも、安原さん自身がどんな手紙を送ったかとか、当時の自分の境遇はどうだとかの話は、ぜんぶ必要最低限。あくまでもこの本は、「中原中也」を知るための、「中原中也」が主役の本であって、自分のことなどは読者の邪魔になる。この姿勢が崩れない。
つまり描かれないことこそが、謙虚な安原さんの性格を一番に表現していたのでした。
中也に巻き込まれて苦労する姿は描かれています。一緒に遊んだ話や旅行した話もあります。中也への想いもあります。真面目で優しい雰囲気はわかります。
でも……ミステリアス。
一体この言葉少なな優しい人を、どうやって演劇の場で表現するというのか?
心配になりました。
このミステリアスさは、中也から安原さんに向けた言葉にも現れています。
君はあんまり無言すぎます(手紙十四 昭和6.6.14)
安さんがひどく沈黙家であるわけは、自分の判断を決して話すまいとする、非常に遠慮深い気持ちから来るのだと思います そこでその事が相手にとってはどういうことになるかを、聊(イササ)か独断的になるかも知れませんが、書いてみます 相手としては、可なり気味の悪い感じが先ず尠(スクナ)くも最初はするのです 何を考えられているのか分からないので。
中也は、自分の言動に対する反応をはっきり示してくれないので、あなたの中に誤解が生じているのではないか、こちらもどうしていいかわからなくなる、というようなことを書いてこう続けます。
思っていることの半分も現せませんし、もともと余程僕には表現困難な事柄なのですが、一口に云えば、「もっと苦情を云って欲しい 察しだけで話が始まるとは思えない」というようなことなのです(手紙九十 昭和10.4.29)
この手紙を受けた安原さんは衝撃を受けます。
初めて見る私への答。同時にこれは又、これまで六年余の間変わることなく持続され来った私達の在り方に対する痛烈な批判でもあった。私は詩人の答を甘受し、己れの罪深さに茫然とした。私は崩れゆくものを凝視し、祈るような気持ちでこの手紙を読んだ。
ここに来て初めて、安原さんの大きな心情の揺れが書きあらわされるのです。
この沈黙が生んだすれ違いが、二人の悲劇的な別れにまで繋がっていきます。
でも実は、この陰の存在がこの著書に流れる切ないドラマ性を生んでいるし、
この安原さんだからずっと中也に寄り添っていられたんだということも、分かりました。
この本が、発行数少なく、いまは多くの人の手に渡りづらい現状であることが、悔しくてなりません。
その後、中也や安原さんに関する様々な方の書籍、またご本人の文章を読み、少しずつ彼の輪郭をつかんでいきました。知っていけばいくほど、こんな人ほんとにいたんだなぁと信じられなくなるくらい素敵な人です。
増田さんが舞台で演じる「喜さん」はもちろん「喜さん」にほかならず、安原さんではない。
ですが、舞台上の「喜さん」の中に私が知る安原さんの片鱗を見たり、また逆に安原さんを知っていく中で「喜さん」に重なる部分を見つけては、泣きたくなるのです。
今やどちらも私の大好きな人です。
今日は命日であり、大阪公演の初日。
京都大学に通う安原さんを訪ねたり、一緒に奈良で遊んだり、故郷の山口に誘って安原さんが滞在したり。
それと同じように、「ちょっとひやかしに行かないか」なんて、中也が誘っているかもしれません。安原さんは演劇も大好きだったから、脚本も演技も、演出や舞台美術も、目を輝かせて楽しまれるだろうと思います。
最終日まで2人でゆっくり観劇して、見守っててほしい。
素晴らしい著作を残してくださった安原喜弘さんに、感謝と敬意を込めて。
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次の投稿から少し、私なりに安原さんの人物像をまとめてみたいと思います。
(『中原中也と詩』展の続きはまたそのあとで…すいません)